法  話
仏事作法

(第5話)御恩の中に生きるとは

毎年夏には、私のお寺ではご門徒さんのお宅を一件一件お盆参りに回ります。
 私は学生の時から回っているのですが、その頃から毎年欠かさず決まって「若院さん、御結婚はまだですか?」と私に聞いてくる遠藤さんというご婦人がおられます。私は正直に「いやー、まだなんですよ」と答えます。すると、「え?どうしてされないのです?」と言われますので、「私も早くしたいなぁとは思うのですが、実際に相手がいなくて…」と返します。
すると、「そうですか…頑張って下さいね!」と遠藤さんは毎回励まして下さいます。実のところプレッシャーをかけられているのかなと思ったりもしました。

 そんな私も一昨年十月に、遂に念願の結婚の御縁がありました。その年のお盆参りに遠藤さんのお宅に参った時のことです。
 お経が終わり、お茶を頂いていますと、「若院さん、ご結婚はまだですか?」と早速例の質問。この時を待っていましたとばかりに、「御縁がありまして、この十月に結婚が決まりました。」と今回は胸を張って答えました。すると、遠藤さんはなんと答えられたと思われますか?
「若院さん、あなたに結婚は、ちょっと早いんじゃないですか?」とおっしゃるのです。 私はひっくり返りそうになりました。
 しかし、その後遠藤さんは私に向き直り、優しい笑顔でしみじみと、こうお祝いの言葉を言って下さったのです。
 「若院さん、御結婚、本当におめでとうございます。ずっと待っておりましたよ。自分の孫のことのように嬉しいです」と。
 そして、言葉はそれだけでは終わりませんでした。今度は目に涙を浮かべて、「若院さん、一つだけ、私からお願い事があります。御結婚される若坊守さんを、どうか生涯大切にして下さい」とおっしゃるのです。
 「私は主人と死別して丸一年が経ちます。今から思えば、あの人にもっともっと『ありがとう』と言葉で伝えておけば良かったと思います。『ありがとう』ともっと優しく接したら良かったと思うことがあるのです。私は何もかもあの人に頼りきっていたから、一人になって何にもできないことに気付かされたのですよ。若院さん、お寺に嫁がれる若坊守さんは大変で、色々な不安があると思います。どうか大事にして下さいね」
 私は胸がジーンとなり涙が出そうになりました。そして、本当に大切なことを教えて下さったと思いました。

 「ありがとう」とは「有ることが難しい」という意味です。私たちは、私たちにとって身近で大切な方というのは、その存在があまりにも大きすぎて、逆にその方のことが「当たり前」になってしまっていないでしょうか。そしてその方の私に向けられた「有ることが難しい」ような御恩や御苦労が見えなくなってしまうことがあるのではないでしょうか。お別れして初めてその御恩に気付かされるのかもしれません。
 遠藤さんは連れ合いのご主人さんと共に、毎月のお寺のご法座には欠かさずお参りされていました。もう三十年以上御夫婦そろって浄土真宗のみ教えを御聴聞されたのです。

 親鸞聖人は『正像末和讃』にこうお示し下さいました。

 「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
       師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし」

 親鸞聖人は、「あなたをそのまま救う」と仰せの阿弥陀様や、そのみ教えを伝えて下さった祖師方から頂かれた御恩に対し、「身を粉にしても」「骨をくだきても」返し切ることはできないけれど、それでも返さずにはおられませんとおっしゃっておられます。
  しかも聖人は、この御和讃を最晩年にあらわして下さいました。「これでもう、御恩は返し切った」という終わりのない厳しいお言葉です。

 今も遠藤さんはお一人で、毎月の御法座の御聴聞は欠かされません。お家とお寺を、今度は私が御主人さんの代わりに、車で送り迎えをしているのですが、先日ぽろっとこんなことをおっしゃいました。
  「お浄土で主人が待っていてくれると思うと、お浄土で主人にまたあった時に、恥ずかしくないような生き方をしないとって思うのよ」と。
 大切な方から頂いた御恩は大きすぎて深すぎて、返し切ることはできないかもしれません。しかし、その御恩を無駄にしない生活はさせていただけるのだと、遠藤さんのお姿は教えてくださいました。
 どこまでも自己中心的な私ではありますが、その私をめあてとし、決して捨てない阿弥陀様の御恩を無駄にしないよう、報恩感謝のお念仏をお称えし、精一杯にこの人生を生きていきたいです。