法  話
仏事作法

(第6話)今、ここでの救い

 作家の中島らもさんがエッセイで書かれていたのですが、今私たちが夜見上げる星と言うのは、悠久の過去の星の姿を見ているのだそうです。というのも、星の光が私の所に至り届くには物凄く時間がかかるからです。

   たとえば、夏の夜空に見える天の川という星たちは、実は、私たちの住む地球を含む銀河系の姿なのです。太陽系は銀河系の端っこにあるそうです。この銀河の大きさは、ある説では4万光年と言われています。これは光の速さで銀河系の一番遠い星の光が地球に届くまで、なんと4万年もかかるという距離です。私が生まれる遥かに以前の姿なのです。

  しかし、それどころではなく、アンドロメダ星雲などは230万光年離れています。これはアンドロメダ星雲の星の光は230万年かけて地球に届いているということで、寿命の短い星もありますから、今はもう消滅している星もあるのです。本当に途方もない話ですね。 身近なところで例えたならば、テレビなどでは時々海外中継がありますよね。海外からの声や音が日本のスタジオに伝わってくるのにも、少しだけ時間がかかりますよね。これと同じようなことが「見る」ということにも行われているのです。

   たとえば私たちが太陽を見るということ。それは厳密にいえば今から8分前の太陽の姿なんですね。それだけ太陽との距離があるということです。

  ここからちょっと面白い話です。たとえば私が誰か向かい合って座っているとします。すると少し距離がありますから、それは言わばほんのちょっと前のその人が見えているわけです。ほとんど差はないのですがね。 中島らもさんはこういうことをおっしゃいます。

「人間は刻々と変わっていきます。大切な人、愛する人の想いも刻々と変わっていきます。」と。

   完全に一緒に時間を過ごすためにはどうすれば良いのでしょうか?
それは思う相手をいつまでも腕の中に抱きしめておくことです。ぴたりと寄り添って離れないことです。そして、完全に同じ瞬間を一緒に生きていくことです。
「私たちの腕は、思う相手をいつでも腕の中に抱きしめる為にあるのであって、決して遠くからサヨナラの手をふるためにあるのではない」と中島らもさんは言われます。
なんてロマンチストな人なんだと私は思いました。
  しかし私はそれは人間には無理だと思います。常に同じ時間一緒にいるのは不可能です。なぜなら、自分と相手はどこまで近づいても一つにはなれないですから。そして人間は、いや私はどこまでも自分中心な所があり、自分がかわいくて、ふと大切な人の手さえ放してしまう時があるのです。また、私たち誰しもは必ず死を迎えねばならず、大切な人とずっと一緒に沿い遂げることはできないのです。

  浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、そのような私の「今」と「ここ」をしっかりと抱いて離さない御仏さまを阿弥陀仏と申し上げるのですよとおっしゃいました。阿弥陀様は今お浄土という世界から、私とおんなじ所に至り届いて下さり、抱いて下さってありますよと。

「今」「ここ」に生きる私の真っただ中まで一緒にいて下さる。それが阿弥陀仏というみ仏様です。だから、私たちはどんな時も決して孤独ではないのですね。